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イベント情報

開場: 午前10時30分  閉場: 午後5時(途中入退場自由)

場所: 佐倉ハーモニーホール(佐倉市民音楽ホール)

アクセス: 京成本線京成臼井から徒歩5分(駐車場はホール南北2ヶ所に合計約120台分)

開催趣旨: 本イベンの目的トは、津田梅子の新札発行(7月3日)と青山学院創立150周年(11月16日)を記念すると共に、近代化日本と日米関係史の観点から津田ファミリーヒストリーを理解し、衣装や飲食を通して時代を体感することがです。ご家族やご友人をお誘い合わせ下さい。

梅は1872(明治4)年、最初で最年少の女子留学生となり、2度目の米国留学を経て1900(明治33)年、女子英学塾(現津田塾大学)を創設しました。梅には、母初と父仙と11人の姉弟妹が、また、アメリカには我が子のように育ててくれたランマン夫妻がいました。仙は1867(慶応3)年に訪米し、1874(明治7)年にアメリカ人女子宣教師と共に創立した女子小学校(その初代入学者に梅の姉琴、弟元親と次郎、初を含む。現青山学院)の校主でした。

定員: 事前申込300名、当日参加は先着100名。

参加費: 一般2,500 円、学生(学生証提示院生・学部生・専門学校生)は500円、高校生以下無料。但し一般当日3,000円、学生当日1,000円。障がい者及び介助者無料(手帳提示)。車椅子スペース3台分、要予約。

事前申込締切: 2024年月7月1日(月)

申込と支払方法: ①電子メイル<sakura.yedo.meiji@gmail.com>、または②往復葉書(〒285-0858千葉県佐倉市ユーカリが丘6‐8‐5 CSYM事務局宛)に、(a)氏名(複数可)とフリガナ、(cb(各々の種別と人数)一般、学生、高校生以下、身体ガイ者等、種別,を書いて送って下さい。当日、現金の実のお支払いです。お釣りのないように現金ご持参ください。

主催: 佐倉江戸明治キャンペーン(CSYM)               

後援: 千葉県教育委員会、佐倉市、同教育委員会、青山学

大学、津田塾大学、津田塾大学同窓会、普連土学園

問合せ: 佐倉ハーモニーホール(佐倉市民音楽ホール)

11(メディア関係の方は <mamotsuda@yahoo.co.jp>に)

 

会場での飲食など: 早めにご来場の上、展示、時代衣装試着(有料)、軽飲食(有料)をお楽しみ下さい。但し、ホール座席でのご飲食は固くお断りします。

プ ロ グ ラ ム

正午 【開会のご挨拶:午後零時~15分】(開始5分前にご着席下さい)

プログラム説明と開会挨拶

【第1セッション: 午後12時15分~1時30分】

●講演1: 外山信司(佐倉市史編さん委員、千葉市立郷土博物館総括主任研究員、佐倉藩・千葉の地域史研究者) 「津田(旧姓小島)仙の生まれ育った佐倉藩と藩校成徳書院」

“もし”仙の出自が佐倉藩でなかったら、私たちが知る津田仙や梅は現れなかったと言えよう。藩主堀田正睦(まさよし)は藩政改革を行い、藩校を成徳書院として拡充し、蘭学や英学などの洋学を積極的に取り入れた。また、幕府老中として「日米修好通商条約」の交渉を担い、日本を開国に導いた。“すべからく洋学を研究すべし”と一念発起し、英語を習得した仙は、幕府使節団一員としてアメリカを訪れ、後年、梅を留学に送り出し、自ら欧米の近代農業を取り入れ、教育や社会福祉などに貢献した。仙の歩みには、佐倉藩で育ったことが通奏低音のように流れている。

●講演2: 津田道夫(初と仙の曾孫、工学博士、津田ファミリーヒストリアン)

「津田初の実家、津田(小島)仙の実家、初と仙の子どもたち」

津田栄七は幕臣で1861(文久1)年、仙を次女初の婿養子として迎えた。初の姉竹(あるいは武)は徳川田安家の徳川慶頼(よしのり)の側室となり、6人の子をもうけた。そのひとりが徳川宗家第16代(明治期の貴族院議長)の徳川家達(いえさと)である。一方、仙は佐倉藩士小島栄七の3男として生まれ、初と仙の次女・梅は家達の従妹になる。梅が女子英学塾を創立した時に小島家と津田家の親族たちが、支援した。仙の実妹・須藤八重野は舎監を勤め、長女・琴と結婚した上野栄三郎は経営面で支えた。5女で米国に移住していた余奈は関東大震災で崩壊した校舎再建に尽力した。

●講演3: 飯野正子(津田塾大学元学長・前理事長、日本アメリカ学会元理事、津田塾大学同窓会会長) 「津田ファミリーの日米関係」

日米関係の端緒は、若き仙にとって黒船到来に対する警備に加わったことが契機となった。その威容さに衝撃を受け、英学習得を目指すことにした。数年後には幕府外国奉行(外務省)に雇用され、明治維新の前年に米政府との交渉団の通訳方(外交通訳官)として渡米。それが、娘梅を国費留学生として送り出すことに繋がる。西洋野菜や果物に関心を持った仙はサンフランシスコの種苗商から多種多様な種や苗木を輸入、つまり民間貿易に従事。切支丹禁制高札が撤去されると多くの米人宣教師が来日、西洋事情に精通し、英語堪能な仙を頼る。米政府から高官が来日すると、民間人であっても仙は歓迎の宴に招かれ、交流。シカゴ万博に、禁煙運動で喜捨されたキセルか鐘を造り展示し、米国女性解放運動家たちと交流。梅以外の子どもたちも、姉琴は夫家族とニューヨーク駐在、弟次郎はマサチューセッツ農科大学を卒業、妹余奈は安孫子久太郎と結婚し、カリフォルニアに移住。このようなファミリーによるアメリカ(人・社会)との交わりの実像と意義を考える。

【休憩: 午後1時30分~2時20分】

(ロビー内で展示・試着・出店をお楽しみください。ホール座席での飲食はご遠慮願います)

【第2セッション: 午後2時20分~3時35分】

●講演4: 飯野正子(同上) 「梅をアメリカで育ててくれた“母と父”」

6歳にして日本の両親の元から旅立ち、アメリカに到着した時に梅は7歳。それから11年間は一度も日本に戻ることなくアメリカ社会に生活した。その間ずっと、わが子のように、一人っ子として世話をしてくれたのが、チャールズとアデライン・ランマン夫妻であった。家庭での教育、かれらが梅に与えた影響、学校選び、教会生活、地域社会とのつながりなどの諸側面の重要さは計り知れない。夫梅が帰国してからも、夫妻との交流は続き、手紙のやり取りや2度目の留学時の再訪などがあった。梅の生涯の課題となった女子高等教育への貢献にも深くつながった。国境や文化の違いを超えた人と人との関係こそが国際関係を築くことを主張したい。

●講演5: 小林和幸(青山学院大学文学部長、史学科教授、青山学院史研究所長)

「もうひとつの近代化を目指した教育者・社会運動家としての津田仙」

津田仙は梅の“父であり、農学者”と語られることも多いが、実は教育者であり、環境保護活動家でもあった。そのことはあまり知られていない。農学社農学校の創立者であった以外に、日本最初の盲学校(筑波大学付属特別支援学校)を仏教界指導者らと共に設立した。米国フレンド派宣教師が学校を始める際に協力し、その命名となった。普連土学園である。来日したウィリアム・ホイットニー博士を支店するため、銀座簿記学校も創立した。本講演では特に、青山学院の源流である女子小学校と耕教学舎創立にあたり、仙が果たした教育的役割に着目する。加えて、それらが統合されてできた青山学院に在籍中の一学生が、栃木県の郷里足尾に甚大な鉱害が発生していることの訴えに耳を傾け、その環境問題に目を向け、それを社会に知らしめ、加えて禁酒嫌煙運動に関わるなど、社会活動家としての貢献は、近代のみならず現代日本の在り方に示唆を与える。

●講演6: 藤井茂(岩手新聞元社会部長・編集委員、新渡戸基金理事長)

「日本最初の農学校 そこで学んだ岩手県出身新渡戸道郎と三田義正」

津田仙は1867(慶應3)年、幕府使節団の一員として3か月ほどアメリカに滞在した。そこで、農業が盛んで、農者が豊かな生活をしていて、国富基盤が農業であることを実感した。日本にはない野菜や果物を食し、日本に紹介し、農業と農民を豊かにしたい、との意識に芽生えた。維新直後に開業した西洋人客を対象とした築地ホテルに勤務し、自ら栽培し収穫物を提供した。18xx年に、ウィーン万博に出向いているとき、幸いにもヨーロッパ農学の権威、オランダ人でウィーン在住ダニエル・ホイブレイク博士の住まいに寄宿し、欧州農業の最新事情や技術について教えを受けた。帰国後、それをまとめて『農業三事』を出版するとベストセラーとなった。そのような背景があり、仙は1876(明治9)年、麻布に農学社農学校を創設。自らも西洋農林水産業事情や西洋野菜果樹などの栽培方法の指導をした。学農社には全国各地から、日本の農業発展を志す者たちが集まった。そこで学んだふたりの岩手県人がいた。新渡戸道郎と三田義正明治が明治10年前後に上京した。新渡戸(国際人新渡戸稲造の兄)と三田義正(後の三田商店の創業者、貴族院議員)の2人は、それぞれが盛岡から上京し、麻布の学農社に入学する。ともに旧南部藩の士族の子弟だったのに、明治になってから、なぜ農学を学ぼうとしたのか、どのように活用したのか、加えて、校長だった仙を2人がどう評価していたのか、などにも言及してみたい。

【休憩: 午後3時35分~3時55分】

【第3セッション: 午後3時55分~4時45分

●上映: 「勝海舟と津田仙: クララ・ホイットニーの見た義父とその友人」

(ケーブルネット296が2023年11月に放送) 

ウィリアム・ホイットニーはお雇い外国人として1875(明治8)年に、商法講習所(一橋大学の前身)教授として家族とともに来日した。しかし、契約が切れて失職。それを知った銀座簿記学校を設立し彼を迎える。住む場所にも困っていたため、仙は旧知の勝海舟の赤坂の邸宅敷地内にある別棟を紹介した。娘クララは海舟の3男である梅太郎と家族を造り、一男五女をもうける。クララに執筆してもらい、仙が翻訳し、出版に協力したのが、日本で最初の西洋料理レシピ本である。1899(明治32)年の海舟の没後、クララは子どもたちと米国に戻った。その末娘ヒルダの孫、クララのひ孫、海舟の現存のダクラス・スティフラー博士と2007年に、ネット上で「再会」し、その後、家族同士のが続いている。そのスティフラー博士の2023年7月の佐倉市における講演記録である。

●講演7: 柳田和音(佐倉市立小竹小学校卒業、普連土学園中学校・高等学校卒業、お茶の水大学)

「津田仙から21世紀に生きる私たちへのメッセージ」

千葉県佐倉市に生まれ、小学校卒業後、両親の薦めで東京都港区の普連土学園に進学し、現在、お茶の水大学女子大学文教育学部人文科学科比較歴史学コース2年在籍。佐倉市の全34ある小学校・中学校は、すべて自校形式で給食が提供されている。2009年以来、毎年4月24日の仙の命日かその命日には、「津田仙献立」という給食が各校にいる栄養士先生がメニューを考えてくださる。それも仙にゆかりの、しかも主として地元で栽培された野菜や果物素材が使われる。学年に合わせて「佐倉学」という次世代への歴史文化継承と佐倉市特有の学問なのである。講師は、たまたま仙がフレンドを「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」の意味を込めてめいめいしたちょうど130周年目に入学した。今回の私の話は、高校2年時に、奈良大学主催の「全国高校生歴史論文コンテスト」入選作品の一部である。史料から明らかなように、仙の功績は今なお引き継がれているが、仙が今日の私たちに問いかけていることは何か考察していきたい。

【閉会のご挨拶: 午後4時45分~4時55分】

●展示・イベント

【会場での時代衣装展示と試着体験(大人1,000円、子供 500円)】

〇 仙の遣米使節随行時の洋装(大人M~LLサイズ)

〇 梅の幼少期アメリカ留学時のクリノリンドレス(子ども120~130サイズ)

〇 梅の鹿鳴館バッスルドレス(大人Mサイズ)

【会場でのパネル展示(佐倉市教育委員会

佐倉市の市立小中学校34校で、本年4月に提供された「津田仙の給食」メニューとレシピ。

【会場での飲食類】

(すべて限定個数提供ですので、売り切れの場合はご免ください)

〇 オプティミストビーガン@佐倉 仙のおかずおにぎりセット 500円円

〇 ブーランジェリーカズ@佐倉 仙の野菜サンドイッチボックス 500円

〇 中華料理みろべー@佐倉 仙の賑わいメンチカツ 300円

〇 三田農林@岩手・盛岡 仙の林檎ジュース 400円

〇 原茂ワイン@山梨・勝沼 仙の赤ワイン 500円

〇 小川園@佐倉 佐倉の銘茶(冷緑茶) 200円

〇 たか長@大阪・堺 梅柄巾着入りカシューナッツ梅塩 1,500円

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